禅と葬送の意外に密接な関係
禅と葬送は本来、
関係がない。
「禅」という言葉は「禅定」を略したもので、
迷いを断つための腹想を意味する「ディャーナ」もしくは「ジャーナ」を漢字に音写したものとされる。
すなわち、
ョ-ガの一種といえるものであったが、
インドの菩提達磨(達磨大師)によって中国に伝えられて、
独特の内省的・哲学的信仰へと発展した。
教団としても当初は小さなものであったが、
やがて中国仏教の主流をなすまでに至った。
禅宗というと坐禅ばかりやっているように思われがちだが、
坐禅と同等に日々の暮らびょうじようしんこぎようじゅうざがしも重視する。
「平常心是れ道」という言葉があるが、
日常の行住坐臥(行く.止まる・坐る・寝る)すべてが修行であり、
その中に悟りがあると禅は説く。
それゆえ、
起床・洗面から就寝に至るまでこまごまとした作法や唱えごとが定められている。
葬儀も例外ではなく、
「清規」と呼ばれる修行規則の中に、
その次第・作法が定められている。
だが、
日本では清規の定め以上に禅と葬送は密接な関係をもっていた。
もともと禅が武士たちに受け入れられ、
貴族にまで広まっていったのも、
その理知的な教義のためではなかったようだ。
それよりも、
禅僧というものに、
そして禅僧が受戒者に授ける血脈というものに、
強い霊力の発揮を期待するところが大きかったらしい。
あくまで私見であるが、
禅僧には死霊や死稜を倣う力があると信じられていたように思われる。
日本最初の純粋禅の寺院である建長寺が、
墓所であり処刑場でもあった地獄谷に建てられたことや、
円覚寺が元冠(蒙古襲来)で死んだ日本と元の兵士の鎮魂を目的としていたことは、
そうしたことを示唆しているように思える。
各地に伝わる神人化度説話(土地の神に禅僧が戒を授けて弟子にするという伝説)も、
人々が禅僧をどのように見ていたのかを表わしているものといえよう。
禅僧自身も死稜を超越した存在だと自負していたらしく、
葬儀を執行して死稜がかかっていたにもかかわらず、
「死稜を嫌わず」と言って伊勢神宮参詣を強行した禅僧の話が、
『康富記」享徳三年(一四五四)に載せられている。
こうしたことは、
禅僧を「死横を扱う者」として聖と同様に被差別的な存在と見る風も生じさせたのだが、
それは同時に庶民層へ広まっていく道を開くものでもあった。
禅がどうして死稜を超える力をもつと信じられたのかもよくわからないが、
初めて日本に禅を伝えたのが、
火葬第一号の道昭であったことと関係があるのかもしれない。
道昭は全国をめぐって土木工事などの社会事業を行なった僧としても知られるが、
そうした庶民救済の姿勢は行基に受け継がれ、
空也、
そして叡尊を経て聖たちへと続いていくのである。
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