箸渡しを行なうのはなぜ?
茶毘とは、
インドの古語の一つで、
パーリ語のジャーペータを音写したもので、
遺体を焼くことを表わしています。
火葬のことです。
葬儀社の名前にもよく
ダビというフレーズが入っています。
現在の火葬場は
ガスや灯油による火葬炉を使っています。
一時間から一時間半程度で火葬することが可能ですが、
当時は薪や炭で焼かれていたのでかなりの時間が必要でした。
火葬の方法は地域によって違い、
「一定の場所を少々掘りくぼめ、
たきぎや藁をおき、
棺の上にも積み上げて火をつける。
よく焼けるように、
時々棒でつついたりする」
(「日本の葬式』)という方法を紹介しています。
薪による火葬は、
季節や死者の体型によってかかる時間が違ってきます。
公営斎場だと一時間で焼き上がるが、
薪はその5~6倍、
冬などは7~8倍かかります。
ちなみに、
公営火葬場が全国的に建設されて
土葬から火葬への移行が一気に進んだのも昭和四十年代後半、
約45年~50年前の話です。
火葬に先立って読経が行なわれ、
拾骨の時にも「舎利礼文」などの短いお経が読まれます。
【炉前読経】といいます。
最近は火葬場に宗教者が同行しないケースも多い。
民俗的な事例においても、
かならずしも宗教者が同行するわけではなかったようです。
今は、直葬・火葬式が増え、炉前読経だけというケースも増えています。
火葬が済むと拾骨(収骨・骨上げ)をする。
木と竹の箸を使って、
二人で一つの骨を持って骨壷(骨箱)に納めます。
これを箸渡しといいます。
箸渡しの理由については、
三途の川の「橋渡し」の意味があるともいわれるが、
その由来ははっきりしていないそうです。
『吉事略儀』には、
箸を使って拾骨することは書かれているが、
箸渡しの記述はないそうです。
骨壷の大きさは東日本と西日本で違います。
これは拾骨する骨の量が違うためで、
東日本が骨をほとんどすべて拾うのに対し、
西日本では重要な骨だけしか拾わないためです。
火葬を行なっている間に、
自宅には中陰壇(後飾り)が設えられます。
骨壷と位牌・遺影を安置し、
納骨までの供養の祭壇とされます。
白木または白布をかけた横長の座卓が用いられ、
香炉・燭台・花瓶・鈴が備えられます。
最近では火葬から戻った時に
初七日法要を前倒しで行なうことが多くなっています。
当日の初七日、または式中初七日が増えています。
初七日以降、
七日ごとに追善法要が行なわれます。
初七日、
二七日(十四旦、
三七日(二十一日)、
四七日三十八日)、
五七日(三十五日)、
六七日(四十二日)、
七七日(四十九日)です。
この間を中陰(中有)といい、
死者の魂が次の生に至るまでの中間的な状態にある期間だとされています。
中陰に読経などを行なうのは、
その功徳によって死者がよりよい後世を得られるようにするためで、
これを中陰供養といいます。
(浄土真宗では臨終往生を説き、
自力行を否定するので、追善供養は行なわず、
阿弥陀仏への報恩の法会として七日ごとの読経を行なう)。
四十九日はこの中陰が終わる時として満中陰といい、
神事への出席などを控える忌みもこの時で終わるので「忌明け」ともいう。
満中陰を期して納骨を行なったり、
白木の位牌を塗りの位牌に変えたりするが、
この時でなければならないというわけではないそうです。
近年では中陰供養をすべて行なうことはまれで、
初七日と四十九日だけということも多いそうです。
また、
親族が集まるのは初七日と四十九日だけとして、
あとの法要は喪主の家族だけで行なうということもなされる。
四十九日の次は百箇日で、
以後は年忌供養という。
宗派・地域によって違いがあるが、
一般的には、
百箇日・一周忌・三回忌・七回忌・十三回忌・三十三回忌とされる。
三十三回忌になると故人は仏になった(祖霊になった)として、
以後の法要を取りやめる「弔い上げ」がなされる。
地域によっては、
位牌や墓石を処分することもあった。
しかし、
三十三回忌では故人を覚えている遺族も少ないので、
十三回忌(場合によっては七回忌や三回忌)で弔い上げとすることも多い。
初七日から三十三回忌まで合計十三の法要が行なわれることになるが、
これを十三仏事という。
十三仏事にはそれぞれ本尊が定まっている。
初七日から順に
不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・地蔵菩薩・
弥勤菩薩・薬師如来・観音菩薩・勢至菩薩・
阿弥陀如来・阿問如来・大日如来・虚空蔵菩薩で、
これらを十三仏という
(宗派によっては十三仏を本尊としないこともある)。